昭和42年06月21日 夜の御理解
今朝の御祈念のあとで御座いましたが、善導寺の原さんがこういうお届けをされました。昨夜あのあちらの長女であります啓子さんが、北野にああして縁についておりますが、啓子さんの主人であります、いわゆる原さんの為には娘婿で御座いますね、もう結婚致しましてもう五、六年にもなりますでしょうか、始の間はよう参って見えよりました。朝の御祈念にも、二、三月位参ったでしょうか。
それっきり参って来ません、それはもう家内をここにお参りに表まで自動車で送って来ても自分はお参り致しません、まそう言う様な程度の信心ですけれど、昨日もあちらへまいりましてからお酒が好きですから、お父さんと兄さんの昌一郎さんとですね三人でその、おみきを頂きながらこう云う事を云うんだそうです。で原さんも大変喜んでですね。いやああんたもそう言う物をその持っておりゃ、私達も安心したと。
けれどもそう言う様な状態で、本当に信心の稽古をしたら素晴らしかろばってんね、と云うて話しました、と云う事なんです、それでこう言う事を云うそうです、椛目の先生。いわゆる合楽の私の事ですよね、椛目の先生という人はその人間を素晴らしい神経質にする名人だと云うたそうです。私はそれを聞いてから確かにそうだなと私は思いました。人間を素晴らしい神経質にする名人だと皆さん意味が分かるでしょうか。
私もそう思ってはおりましたけど、そういう表現はまあだ自分でもした事がなかったし、そういう風にまあいうなら、そのものずばりに自分と言う物を表現した事は無かった。確かに合楽にこうしてお引き寄せを頂いておりまして、二ヵ月、三ヵ月に本当にここの信心を体得しておりますとですね。確かに神経質になるです、もうひとつ素晴らしい事を云う。というのはその自転車屋さんで御座いますが、まあいうならば注文がはいると致しましょうか、良い修繕もんがはいる。
はあこりゃ儲けもんだとこりゃ儲かるぞと、いう風にお母さん思うたつはもう絶対儲からんし、スム―ズさを欠いてしまうがどういうもんじゃろうか、お母さんでもそう言う様な体験をするかと言う様な事を云うんだそうです、これも絶対ですね。例えばここで久保山先生がよく云うておられました。先生今日参って来た信者はありゃ良か信者になりますばい違わんなしや、いや仲々その理解力がある仲々第一タイプ、先生は仲々面くいでしたから、そのタイプが良いとその良か信者と言う風にこうすぐ思われる。
ですからもう自分の所にお届けが終ってから出てくると、もう自分の所に、あすけ座らしてから、もう一生懸命椛目の信心を説かれるんです、けれども、あんたがそげん云うなら違わんごと参ってこんよ、みよってごらん、と云うと必ず参って来ませんでした。もう続いてた信者が居りませんでした、久保山先生にそういう意味合いで、いうなら見込まれた信者は、そりゃもう私共もそれを体験いたします。
自分が育て様なんて思うた信者、はあこりゃ育てば良い信者が出来るぞなんて思うたら、もう絶対育ちませんですね。 いかに神様がですね、もう全面的に、お働きになっておるかと云う事が分かります。自分の小さい人情とか自分の知恵とか、と言った様な事ですね、人が助かる筈もなからないが、育つ筈もないです、神様がお引き立て下さるのだ。唯その上野トシオさんと云います。
その自転車屋さんはトシオさんが言ってります様に、もう、唯もう淡々としてですどういう仕事でも唯淡々としてです、どういう仕事でも唯淡々としてしておる仕事であっておかげを頂けるのであって、はあこの仕事をすりゃいくら儲かるとか、こりゃ良かお得意さんとかと云う風に意識したら不思議にその見込みは外れて行くんだと。言わば当てた物は、向うから外れて行くと言った様な事を、まあいうならば椛目に何ヵ月かお参りしておる内に、把握して居った、と云う事になります、だから素晴らしい。
その云うならば商売の仕方というか、生き方と言う物を体得しておるという感じがします。兎に角椛目の先生は、人間をえらい神経質にする名人だと、もしここで私神経質にならなかったら、矢張りその人の信心はドンだと思うですね、例えば鴨居でちょっと頭を打ってもです、あいたよ、と云う前に、自分自身を見てみようと、問題はない、問題を問題として取り組むという様な事は無い、問題そのものは無いのだ、問題に感ずる時には、自分自身の事で問題があるだけなんだ、というのが私の生き方なんだ。
例えば道を歩いておってもです、そこになら青いシグナルが出た時には、一つの神様のスム―ズさというかおかげを感じる、トタンに赤い遮断機が下りる、おや、こりゃちょっとおかしいぞ、と自分を振り返ってみる、反省してみる、又自分の周囲にいろんな注意を怠らない、というのが、いうならまあ、私の生き方ですから、まあ一事が万事に確かにそう言う様な、気が致しますですね。もう様々な小さい所にも神経を使う、そう言う様な、私が考えるのはです。
そういうどういう大きな広いというか、大きな信心を願っており、大きなおかげを願っておりましてもです、そういう小さい所を疎かにしたんでは、おかげは受けられない。今朝からの御理解の一節にもあります様に、例えば確かに一斗なら一斗のお米を買うて来たんだけれど、うちで計ってみたら五升しか無かった、どうしてじゃろうかという前にです、矢張りその袋をひとつ検討してみようと確かに何処にか、もうそれこそ小さい穴であってもほげとる。
持って来る道々に少しづつでも漏ったりこぼれたりしておる。成程ここに五升になる元があったんだなあと言う様にです、その小さいからというてその小さい穴を、私は疎かにする様な事ではおかげにならん、確かにそげな筈は無いが是だけの信心をさして貰よって、おかげ頂けん筈は無いがという人ならいう人程です、何処からかおかげを頂いとるのだけれども、そのおかげを取り逃がしておるのであり漏らしておるのである。
為には、そういう小さい穴一つの上にでも、小さいほころびの上にでも、神経を使わなければいけん、神経を使うと云う事は、神経質になると云うでしょうかね、というのとはちょっと違うと思う。その心を神様に細かい所にまで配っておるんだ、神様の働きを、どういう小さい働きでも云うならささやいて下さる様な事柄でも、それに耳を傾け様とする信心態度であり、姿勢なのだと云う訳なんですね。今日私午前中奉仕させて頂いておる時でしたか、電話が掛かって来た。
それは久留米の市役所から電話が掛かって来た、何とかいう助役さんからかかって来た、この前のここの落成式の時に、官庁関係もご招待してあった時に、市長さんもその中にはいっておった、所が市長さんには都合があって、出て来られなかったものですから助役さんが代参しておりました。それでそん時のお詫びもあり、いっぺんお礼に参拝したいと云うておられましたが、今日そちらの方へ参られますから、丁度四時からちょっとした時間では御座いますけれども、そちらにまあ参拝のおかげ頂きたいから、という電話であったそうで御座います。
ですから、ま私も、承知しましたと云うて電話切った、時間が四時にと云う事で御座いましたから、私今日は、善導寺のお月次祭で御座いましたけれども、帰りましたのが三時半で御座いました。さそれから表に打水をさせましたり、ちょつとお掃除をさせましたり、あと片付けさして頂いたり、又お広前で御用頂いとる者は、奉仕着を着けさしてもろうてから、迎えさしてもらう、心配りをさしてもらったり、そういう心配りですね、をさして頂いとりました。
それで私もその控えがク―ラ―が入っとりますから涼しいですから、あちらが良かろうと思うてあちら、こりゃもう一時間ばっかり前から入れて涼しくしている、所がその楽室に太鼓がこう置いてある太鼓の上にあの、まあ云うなら汚らしいその上の方の金具の所へ被せる帽子の様なのがあるんですよね太鼓をおゝう馬糞紙で作ったんです。それがなんとはなしに見苦しいんですよ。
ですから私、それをですね、こうとりよったんです、そしたらどうしたはずみでしょうか、上の金具でですね、ここをすっぱり切ってしまったんです、あの厚いので切ったですから、相当痛むし血が随分出ました、それこそさっきの話じゃないけれども、神経がとれる、そう云う事にでも神経を使う。ありゃ、こりゃ神様の御神意に適わなかったなと、すぐ思うたんです、私がそう言う様な事をする事を、例えばここでなら市長さんが見える、何と云うたってここの久留米市の一番大将である。
しかも信心も無いのにこの前の、そのお詫び旁やらして頂きたいと云うて見えるのである、而も前もって時間を通知までして見えるというのですから、そりゃお掃除のひとつもさして頂く。打水のひとつもしておくというのは、もうこりゃ当たり前なんだ、礼儀なんだ、又ここで奉仕をしておるみんなにしても、奉仕着でも着けさして頂いてから、ご案内するならご案内しなければいけない。
私もその時間はもう下っておる時間ですけれども、御結界に付いてから待とうという気持ちである、所がですね、私の心の中にそういうひとつの調度品でもですね、矢張り見せようという気持ちがあった事を気感に適わなかった、だから私はもうそのまま、被せたまましとった、はあこりゃ見苦しいなら見苦しい所を、そのまま見て貰おうと、常日頃かぶせてあるのだから。
今日に限ってわざわざそのきらきら光っておるありゃ見事なもんじゃありますもんね。金色にサンと輝いておる様な感じ、太鼓の上はですからまあお広前の一部の部屋にあるのは、ひとつのまあアクセサリ―でもある様な感じがする楽器が置いてあってですね、見苦しくないけども、あのきたならしい、そのボックスをかけてあったんじゃ、然しやっぱ見苦しい、けども折角まあここを見に来るのに、こんな事ではいけないそういう人情、人間心が気感に適わなかったと思うて。
その事をすぐお詫びさして頂いた。それでそのままにしておいたんです。そして私は御結界奉仕さして頂いた。そしたらですね、久富先生は、下であの水をかけておられた、先生、ああたも早く奉仕着に着替えてから、見えましたら玄関で迎えて下さい、是は私云わんですけれどもね、私が、あの梅林寺さんを訪問しました時にですね、私は開襟シャツでもう、どこの親父やら分からんごと、しかとうもない風して行っとるんです、二、三人で参りました、ところが、あの梅林寺で修業しておる、まあ修行生のお坊さんが、表に見えられましてですね。
もうあの式台に手をついてピタ―ッと頭を付いてから、いらっしゃいませ、もう気分のいいもんですね、今頃ああいう、礼儀正しい在り方をする、成程梅林寺さんだ、禅の修業の場だと云う事を感じました、もうあの式台一番下のですね、あそこへ、手を仕えてですね、そして頭をこの、お縁に擦り付ける様にして、いらっしゃいませ、と云うてから私共を迎えて下さった。
もういうならば、参観、お参りでもなからにゃ何でもない、というその来訪の人に対してでも、そういう礼儀を尽くされるという事は、まあ勿論あれが梅林寺さんのひとつの、しきたりで御座いましょうけれども、良い所は取らなければいけんなあと、私その時思うた事で御座います。恐らく皆さんここの先生方が、どういう風で迎えたかそりゃ知りません、恐らく立ちながら、どうぞいらっしゃいと云い乍ら、ここまで連れて来たじゃろと思います、けれどもです、こりゃ他山の石ですね。
矢張り他山の石と云うたらおかしいですけど、矢張り見習うべきだと思いますね、というて見せてやりましょう、と、そういう心ではいけない、けども心の中に確かにあった事は、あったに違いない、そういうお気付を頂いてから手を怪我したと云う事なんです。私それなら、だから見苦しいなら見苦しい所を、そのまんま見てもらえと思うて、お結界につかせて頂いたらです、それが綺麗にして、いやその今感じたばっかりのその汚らしい、その汚らしいというより、被せ物ですよね。
それは取っておく事が礼儀ぞという、意味の事を頂くのですよ、そのお客さんに対する礼儀と、いう事においてならとってもよか、いいのです、とらにゃならんのです、けれども見せてやりたい為にであっては、神様の気感に適わぬ、そう言う所が今日のトシオさんが感じたのですね。本当に神経をこまかに使っておかないと、お気付頂く事も分からないが、次の神様の本当の願いというものも分からない、本当の事を教えておられようとして、おられるその事も分からない。
お互いがお気付を頂く本当に教えて頂く、と云う事はです神経を細かに使わないと分からないですね、お気付を頂く様な事が起こってこんな事で御座いましたから、お気付を頂いた。本当に神様は有難いと思うだからそこんところだけに、有難いと云う風に思わずにですね、そのお気付を頂く前の処を有難く頂かにゃいかんです、それまでで仕切っちゃ詰らん。そういうお気付でも例えばなら分かり易く云うなら悪い事をした。
信心して悪い事をしておる、だからお気付を頂く、神様ちゃ有難いもんだと、お気付下さる事が有難い、というもうひとつ向うの方にです、その悪い事をしなかったら気付ではなくてそこはもうおかげの世界になる。そういう様なところがです私はやっぱり神経を細かに使わせて貰えれる、どういうさ細な事にでも御神意を悟ろうとする、そういう信心姿勢というものが私は信心さして頂く者には大事だという風に思うのです。
ま是までなんですけれども今日は見えましてから、ほんのしばらくで御座いましたけれども、お茶でも差し上げさして頂いてもう何かですね、それこそ十年の知人のような感じです私もですがあちらも、市長さんもやっぱりそうだったらしいんです、まざっくばらんなお話をさして頂いたんですけれど、その中に今日あの竹内先生達が夫婦で見えられました。今日あの東京出張だったんですそれで今日帰られましたから。
博多の駅から直接こちらへ夫婦でお礼に参拝しておられる、そん時に私今日はあの今、久留米市の市長が来たいという電話が掛ったんですよ、と云うて話しとりました、それで暫くゆっくりしとられましたけど、それが四時というもんですから、出来たら私もお会いして行きたいんですけれども、と云う事でした。先日あの市長会議の時に、伊万里市の市長代理で、久留米で会合があった時に面接されて、よく知っとられるらしいんです、ですからその話がのけておりましたから。
市長が見えたら、どうぞ先生よろしくと云う事で御座いましたから、私その事を市長さんに話したんです、はあ、あの竹内助役もここに見えるんですか、はあ月に何回か見えられるんですよ、と云うて、その事から信心のですね、はあそうですか、もうこういう事なんかももう、実に微妙な神様のひとつの演出であったと思いますですね。それからその信心話が例え、しばらくでありましたけれども出来る様な、お繰り合せの中に、はあそうですか、伊万里の竹内助役もここへ見えるんですかと云うて。
そのまあ感心しておられるというか、まあいわば椛目の信心と云うか、合楽の信心に特に関心を寄せられたと云う感じで御座いました。それがどうこうと云うのじゃないですけれども、矢張り神様のひれいと言う物はいやが上にそのひれいを、現して下さろうとする働きがその中に、所謂私の小さい神経をもってするとそれを感じん訳にはまいりませんでした。どうぞ皆さん、確かに合楽の先生は、人間を神経質にする名人だと。
私もそれを云われてみて、確かに自分で本当にそうだと思います、私自身がそうだから、その私の信心を聞いて貰うのですから、皆さんとてもやっぱり神経質にならざるを得ない、というてその神経質になってですね、心を病むというのじゃありません、心を暗くするというのじゃありません。その事からいよいよ御神意を悟らして貰う、どういう小さいおかげを漏らす様な物でも、大きなおかげを頂かして頂く為には。
小さいおかげを漏らす、そこからいわば一斗の米が五升になるのは訳ない、いうなら蟻の一穴から、堤の堤防でも切れると言う、例えがある様にです。そういうおかげを落さんで棲む、おかげを頂く為にも、矢張りそういう意味での神経を使わして貰える稽古、そこにね、私は信心の生き生きとした稽古というか、神様を生き生きと自分の周辺に、感じさして貰えれる、おかげを受けられると思うですね。
どうぞ。